その通説って本当?
世界各国で臓器移植を必要とする人々が多数存在する中、臓器提供数を増やすための様々な取り組みが行われています。その一つとして、「臓器提供の意思表示がなければ自動的に同意とみなす」という「オプトアウト(推定同意)」方式への制度変更が注目されています。このデフォルト設定の変更は、実際に臓器提供率を大幅に増加させる効果があるのでしょうか?
通説が広まった背景
関連記事: この記事はナッジ理論の特殊ケースとして位置づけられる。デフォルト設定の変更はナッジの代表的な手法の一つであり、臓器提供はその政策応用例として行動経済学の教科書に繰り返し登場してきた。
臓器提供における「デフォルト効果」は、行動経済学の知見に根ざしています。人々は選択肢が複数ある場合、特に理由がなければ、あらかじめ設定されている「デフォルト」の選択肢を選びがちであるという傾向(現状維持バイアスや保有効果など)が指摘されています 1。この考えに基づくと、臓器提供を「しない」と明示的に意思表示しない限り、「する」とみなされるオプトアウト方式を導入することで、提供意思のある人の登録漏れを防ぎ、結果として臓器提供率が向上すると期待されます。
実際に、世界的な臓器不足を背景に、スペインやベルギーといった一部の国々では以前からオプトアウト制度が採用されており、高い臓器提供率を維持していると認識されています。近年では、英国(ウェールズ、イングランド、スコットランド)やオランダなど、多くの国がこの制度への移行を進めてきました 234。
検証エビデンス
通説を支持する根拠
Kirtikumar(2025)は、行動経済学の枠組みからデフォルト設定が人々の行動に強力な影響を与え、特に意思決定が複雑で認知コストを伴う場合に既存の選択肢に留まる傾向が強まると整理し、死というタブーや手続きの煩雑さを伴う臓器提供においてもデフォルト設定が行動を促す要因となりうると論じている15。実験室レベルでは、Huang et al.(2018)が中国で「拒否する」を選ぶことで登録が完了する「拒否応答モード」(オプトアウト類似)を用いた研究で提供数が大幅に増加することを示し6、Li et al.(2013)の実験室実験はオプトアウトと優先ルールを組み合わせたシステムが最も提供率を高めうると報告している7。倫理面ではZambrano(2021)が「より少ない間違い」論を展開し、多くの人が死後の臓器提供に前向きであるという前提のもと、オプトアウト制度は提供を望む人々の意思が記録されない「間違い」を減らし患者の自律性をより尊重するとの立場を示している8。
通説を批判する根拠
Dallacker et al.(2024)は、多くの国がオプトアウト制度に切り替えた後の影響を長期的に回顧分析し、デフォルト設定の変更が死亡した臓器ドナー数の増加に結びついていないと結論づけた9。Etheredge(2021)は、オプトインとオプトアウトのシステムは単独で使用した場合ドナー数を増やす上でほとんど違いがなく、制度移行のみでは明確な利点は得られず既存の臓器提供システムの能力強化の方が有益だと論じている10。Lee and Tham(2022)はスコットランドのシステム変更後の臓器増加効果について「結論が出ておらず、せいぜいわずか」と報告し、インフラ整備や国民の意識向上を伴わない場合は明示的なオプトアウト選択の欠如が家族の抵抗・拒否につながりうることを指摘した11。Bea(2021)も、オプトアウト政策単独で臓器不足を解決できるか疑問であり臨床現場の重要要因への対応が伴わなければ無意味な解決策となるリスクを指摘している12。さらにShaw(2019)はウェールズの経験から、他のデフォルト設定や制度との複雑な相互作用が提供数を増やす努力を複雑化させうると示唆し3、Wachner et al.(2022)はオランダ導入後の国民の自律性に関する反応の多様さを報告している4。
研究全体の動向
実験室での研究や行動経済学的な理論はデフォルト設定が人々の意思決定に影響を与える可能性を示唆するものの、国レベルの大規模制度変更を検証した研究では効果が確認されない、もしくは限定的との結果が複数報告されており、近年は通説に対する批判・修正側が大勢を占める。Dallacker et al.(2024)の長期回顧分析9、Etheredge(2021)の国際比較10、Lee and Tham(2022)の英国分析11はいずれも、デフォルト設定の単独効果が期待ほどではないことを示している。
複数の研究が、家族の意思決定の役割 211、医療システムのリソースと効率性 1012、国民の臓器提供に関する知識や意識のレベル 11 など、多様な要素が臓器提供率に複合的に影響を与えていることを指摘している。単純なデフォルト設定の変更だけでは、これらの複雑な要因が絡み合う中で期待されたほどの効果を発揮しない場合がある、というのが現時点でのコンセンサスに近く、本記事の判定は「否定」とした。
留意点
- データの限界: 一部の研究は比較期間が短かったり特定の臓器に焦点を当てたりしており13、臓器提供数の長期的トレンドを評価するにはさらに長期間の多角的な検証が必要である。
- 解釈の余地: デフォルト効果は単一要因ではなく、社会的・文化的・制度的・医療的な要因と相互作用するため、効果の有無は分析の切り口や評価指標(登録数か実ドナー数か等)によって結論が変わりうる。
- 個別事情の存在: 各国の制度設計、文化的背景、国民の意思決定プロセス、医療インフラの整備状況は多岐にわたり、ある国で観察された結果が他の国にそのまま当てはまるとは限らない。
結論
臓器提供における「デフォルト効果」、すなわちオプトアウト(推定同意)制度への移行は、行動経済学の理論や一部の実験室研究からはドナー数増加に寄与する可能性が示唆されています 167。しかし、実際の国レベルで実施された制度変更の影響を検証した最新の大規模研究では、デフォルト設定の変更のみでは臓器提供率の顕著な増加に結びつかないという報告も複数存在します 91011。
これは、臓器提供という極めて個人的かつ社会的な意思決定が、デフォルト設定だけではなく、家族の意向、医療体制の能力、国民の意識や教育など、多様な要因の複雑な相互作用によって左右されるためと考えられます 312。したがって、デフォルト設定の変更は臓器提供率向上に向けた一つの戦略となり得るものの、それ単独で劇的な効果を生む「特効薬」ではないと慎重に評価するのが適切でしょう。効果的な臓器提供体制の構築には、包括的なアプローチが不可欠であると考えられます。
引用元
引用元
-
Kirtikumar, H. M. (2025). The Behavioral Economics of Organ Donation: How do Cognitive Biases and Default Options Influence Organ Donor Rates?. International journal of social science and economic research. DOI: 10.46609/ijsser.2025.v10i06.035 ↩ ↩2 ↩3
-
Kok, N., van de Meulenhof, M., Abdo, F. W., & et al. (2025). Physician and relatives’ role change after shifting to an opt-out organ donation system in the Netherlands: A before and after ethnographic study. Health Policy. DOI: 10.1016/j.healthpol.2025.105473 ↩ ↩2
-
Shaw, D. (2019). The side effects of deemed consent: changing defaults in organ donation. Journal of Medical Ethics. DOI: 10.1136/medethics-2019-105482 ↩ ↩2 ↩3
-
Wachner, J., Adriaanse, M., van den Hoven, M., & et al. (2022). Does default organ donation registration compromise autonomous choice? Public responses to a new donor registration system. Health policy (Amsterdam, Netherlands). DOI: 10.1016/j.healthpol.2022.07.002 ↩ ↩2
-
Dutcher, E. G., Green, E. P., & Kaplan, B. (2020). Using Behavioral Economics to Increase Transplantation Through Commitments to Donate. Transplantation. DOI: 10.1097/TP.0000000000003182 ↩
-
Huang, Y., Song, X., Shao, Y., & et al. (2018). Nudging: Default option effect and response mode promote organ donor registry participation in China. DOI: 10.3724/sp.j.1041.2018.00868 ↩ ↩2
-
Li, D., Hawley, Z., & Schnier, K. (2013). Increasing organ donation via changes in the default choice or allocation rule. Journal of health economics. DOI: 10.1016/j.jhealeco.2013.09.007 ↩ ↩2
-
Zambrano, A. (2021). Fewer Mistakes and Presumed Consent. The Journal of medicine and philosophy. DOI: 10.1093/jmp/jhaa027 ↩
-
Dallacker, M., Appelius, L., Brandmaier, A., & et al. (2024). Opt-out defaults do not increase organ donation rates. Public Health. DOI: 10.1016/j.puhe.2024.08.009 ↩ ↩2 ↩3
-
Etheredge, H. R. (2021). Assessing Global Organ Donation Policies: Opt-In vs Opt-Out. Risk management and healthcare policy. DOI: 10.2147/RMHP.S270234 ↩ ↩2 ↩3 ↩4
-
Lee, A., & Tham, J. (2022). Opt-in Vs. Opt-out of Organ Donation in Scotland: Bioethical analysis. The New bioethics : a multidisciplinary journal of biotechnology and the body. DOI: 10.1080/20502877.2022.2095714 ↩ ↩2 ↩3 ↩4 ↩5
-
Bea, S. (2021). Opt-out policy and the organ shortage problem: Critical insights and practical considerations. Transplantation reviews (Orlando, Fla.). DOI: 10.1016/j.trre.2020.100589 ↩ ↩2 ↩3
-
Horvat, L. D., Cuerden, M. S., Kim, S. J., & et al. (2010). Informing the debate: rates of kidney transplantation in nations with presumed consent. Annals of internal medicine. DOI: 10.7326/0003-4819-153-10-201011160-00006 ↩
📊 引用論文の研究デザイン構成(13件)
※ 研究デザインの信頼度グレード:メタ分析≥RCT≥実験研究≥コホート≥横断研究。本記事が実際に引用した論文の構成です。
※ 本記事は査読(ピアレビュー)を経て学術誌に掲載された論文のみを根拠としています。査読前のプレプリント論文は引用対象から除外しています。